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第四十夜 Nikkor-S Auto 5.8cm F1.4

ニコンF用初のF1.4レンズ
Nikkor-S Auto 5.8cm F1.4

この連載も今回で40回目となった。年4回の連載であるので、開始からまる10年も続いたことになる。これも愛読してくださっている読者の皆さんのおかげである。感謝したい。さて今夜は、ニコンF用で初めてのF1.4大口径レンズNikkor-S Auto 5.8cm F1.4とともに、ガウスタイプが大口径標準レンズのスタンダードになるまでの歴史を振り返ってみよう。

大下孝一

1、ゾナータイプとガウスタイプ

図1.Nikkor-H 5cm F2のレンズ構成

図2.Nikkor-H Auto 50mm F2のレンズ構成

ライカをはじめとするレンズ交換式小型カメラの登場以来、大口径標準レンズの座を分け合い、性能向上にしのぎを削ってきたのがゾナータイプとガウスタイプである。第三十四夜でもとりあげたゾナータイプは、図1のような3群6枚、または最後群が3枚接合となった3群7枚構成のレンズで、第二夜などで登場したガウスタイプは、図2のような4群6枚構成が基本のレンズ構成である。

1940年台以前はゾナータイプが優勢であった。その理由は3群という単純な構成にあった。当時、レンズ表面の反射防止コートの技術は確立されておらず、空気との境界面が多いほど、レンズの透過率は低下し、さらに、レンズ表面の不正反射によってゴーストの増加とコントラストの低下を招いていた。性能を良くするためにレンズ構成枚数を増やすほど、設計性能は良くても、実写上はコントラストの低下した切れの悪いレンズになってしまうジレンマがあったのだ。そんなわけで、レンズの貼り合わせを多用して空気との境界面を6面に抑えたゾナータイプは、8面の境界面をもつガウスタイプに比べて、相当優位にあったのである。

ゾナータイプの長所はまだある。まず小型である点だ。ガウスタイプは対称型と言われるレンズなため、レンズ全長が焦点距離よりかなり長くなってしまうが、ゾナータイプは非対称な光学系であるため、大口径レンズでありながら小型に設計することができた。この特徴は小型軽量を旨とするレンジファインダーカメラ用レンズとして有利に働いたに違いない。

そしてもう一つゾナーの特徴として、高次の球面収差やコマ収差の補正能力が高いことが挙げられる。ガウスタイプは、そのレンズ構成の特徴から、球面収差や低次のコマ収差が自然に補正されるという利点があるが、自然な構成ゆえに高次のコマ収差の補正能力が弱かった。一方ゾナータイプは、S用8.5cm F1.5の紹介で佐藤治夫さんが書いている通り「毒をもって毒を制する」ことで高次のコマ収差を巧みに補正することができたのである。

こう書くと、ゾナータイプはいいことずくめで、ガウスタイプはだめじゃないか、と思われるかもしれない。しかしそうではない。ガウスタイプは、球面収差、非点収差、色収差の補正に優れており、絞りによる焦点移動も少ないため、絞り込んだ時の解像力ではガウスタイプが優れている。しかし大口径レンズは開放付近で使ってこそであろう。やはり、境界面でのロスが少なく、開放でのコントラストの高いゾナータイプの方が一般の評価は高かったのである。

ところが、1940年代、50年代の技術革新によって、その評価は少しづつ変わってゆく。一つは1940年代に発明された反射防止コーティングである。この発明によって、ガウスタイプの空気境界面が多いという欠点が払拭された。そしてもう一つが、1950年前後に始まるランタン系高屈折率低分散ガラスの開発である。ガウスタイプはこの新ガラスを得て、高次のコマ収差の補正を行うことができるようになった。コートと高屈折率ガラス、この2つの力を得て、50年代以降、一段と性能を向上させたガウスタイプが登場してゆくのである。

2、近距離変動

ここで初期の大口径ニッコールレンズに目を向けてみよう。5cm F2、5cm F1.5、5cm F1.4、8.5cm F2、8.5cm F1.5、これらは全てゾナータイプを基本に設計されている。ニコンは一見ゾナータイプ一辺倒のように見えるが、実は社内では早くからガウスタイプの研究を重ねていた。発売されることはなかったが、ゾナータイプの5cm F2発売直後から、現行品の改良と並行してガウスタイプの試作を始めている。ゾナータイプの限界とガウスタイプの可能性を、設計者達は敏感に感じていたのである。

きっかけとなったのはライカマウント用5cm F2であった。第三十四夜で触れたように、このレンズのヘリコイドはユーザーの便宜を図って45cmまで繰り出せるようになっている。しかしこれが仇となって「この性能では文献複写には使えない」とクレームが寄せられる。

また、8.5cm F1.5の開発ではこんな出来事があった。後群を4枚接合にしたタイプを試作したところ、設計性能は抜群によかったはずなのに、試作の結果は散々で、結局このタイプは没になってしまった。ゾナータイプは、非対称な光学系であるため、近距離での性能劣化が大きかったためであった。

5cm F1.4の設計でも非常に苦労している。F1.4まで明るくすることが精一杯で、これ以上の改良は無理だと思われた。「毒をもって毒を制する」光学系ゆえに、少し改良しようと薬を効かせると効き過ぎて、かえって性能を崩してしまうのだ。その後、5cm F1.1の開発でガウスタイプを選択したのも、5cm F1.4の最終版がガウスタイプになったのも、これらの経験が大きく作用したものと考えられる。

3、Nikkor-S Auto 5.8cm F1.4

そして一眼レフの台頭が、ゾナータイプとガウスタイプの競争に最後の決着をつけることとなった。ゾナータイプは非対称な光学系であるため、どうしてもクイックリターンミラーの作動に必要なバックフォーカスを確保することができず、大口径標準レンズスタンダードの座をガウスタイプに譲ることになったのである。こうして、一眼レフの普及とともに大口径の標準レンズはガウスタイプ、そしてゾナータイプは全長の短さを活かし、大口径望遠レンズという棲み分けとなっていったのである。

さて、Nikkor-S Auto 5.8cm F1.4の話に移ろう。このレンズはニコンF用としては初めてのF1.4レンズである。ニコンFは、レンジファインダーカメラSシリーズを凌駕すべく企画されたカメラであるから、F1.4の明るさをもつ標準レンズを何としても開発しておく必要があった。この設計を担当されたのは村上三郎さんである。村上さんはこのレンズの発売の後、設計部の副長に昇格されているため、おそらくこのレンズが村上さんの手がけられた最後のレンズと思われる。

設計はF用5cm F2の設計に目処がついたころからスタートする。5cm F2では、前側に弱い凹レンズを配した変形ガウスタイプで、Fカメラに必要なバックフォーカスを確保することができたが、1絞り明るいこのレンズではそう簡単にはゆかなかった。一般に、レンズは明るくするほどレンズの総厚が増えるため、全長は長く、バックフォーカスは短くなる。結局焦点距離を8mm長くして、必要なバックフォーカスを確保することになった。

図3.Nikkor-S Auto 5.8cm F1.4のレンズ構成

図3にこのレンズの断面図を示す。6群7枚のレンズ構成である。一般的なガウスタイプのレンズの前側に凸レンズをつけたような構成である。第3レンズと第4レンズは貼り合わせレンズのように見えるが、わずがに空気間隔をあけた分離式となっている。

5.8cmという焦点距離は、バックフォーカスの確保による性能の低下と、標準レンズと呼べるぎりぎりの焦点距離のバランスの中で生まれてきたものであるが、短い望遠レンズと考えるとなかなか使い勝手のよい焦点距離といえる。後年ノクトニッコールの58mmという焦点距離はこのレンズに倣ったものである。

さて、このレンズは初期のガウスタイプの特徴をよくあらわした収差バランスである。球面収差は前群に凸レンズを1枚追加したことで、大変良好に補正されている。軸上色収差、倍率色収差共に大変少なく、非点収差の補正も非常に良好である。しかし、像面湾曲がわずかに残存しており、コマ収差の補正が完全でないために、開放ではフレアがやや多く、絞り込んだ時の解像力では最新のレンズにやや劣っている。これは一眼レフ用にバックフォーカスを広げたことによる設計上の無理がきたものだろう。この像面湾曲とコマ収差の完璧な補正は、この次のモデルNikkor-S Auto 50mm F1.4で達成されることになるが、この話はまた別の機会に譲ることにしたい。わずかにたる型の歪曲収差も残存しているが、直線被写体を撮らない限り目立つ量ではないだろう。

4、レンズの描写

作例1

Nikon F-301 Nikkor-S Auto 5.8cm
F1.4 絞りF2 絞り優先オート RVP-F

作例2

Nikon F-301 Nikkor-S Auto 5.8cm
F1.4 絞りF4 絞り優先オート RVP-F

最後に実写結果を元に、このレンズの描写をみてみよう。

このレンズは、開放状態では画面中心部は非常にシャープであるが、画面中間部からコマフレアによるにじみが発生し、画面のごく中央部以外、全体に紗をかけたような描写である。コマフレアは絞るにつれて減少し、F2.8~4まで絞ると概ねなくなるが、わずかに残る像面湾曲のため、硬いトーンになることなく、全体に柔らかな描写を保ち続ける。F4に絞ると画面周辺まで均質でソリッドな描写をする最新のAFニッコール50mm F1.4と好対照の写りである。

作例1は少し絞り込んで撮影したつつじの写真である。このレンズの柔らかな描写が最高に発揮されるのは1mより近距離の撮影であろう。開放では紙のように薄いピント面の前後で被写体が背景に溶け込むようにぼけてゆく。なかなか他のレンズでは得がたい描写ではないだろうか?作例ではあまり溶けすぎないように一絞り絞って撮影している。

作例2は、もう少し絞って、F4で撮影した。このレンズは普通の標準レンズよりわずかに焦点距離が長い分、パースによる歪みも少なく、同じ絞りでも大きくぼけるため、中望遠的な撮影には使いやすい。また作例からもわかる通りボケ味も良好である。ただ一つ残念なことは、絞り形状が直線的な6角形で、F2からF2.8で角に「ヒゲ」が出ることだろうか。

1960年3月に発売されたこのレンズは、1962年3月に後継機であるNikkor-S Auto 50mm F1.4の発売とともにその役目を終え生産を終了する。生産期間わずか2年という短命なレンズであった。そして、この後継機Auto 50mm F1.4こそニコンFとニッコールレンズの地位を不動のものにする名作レンズなのである。このAuto 50mm F1.4にいたる開発の流れはまた別の機会にお話することにしよう。

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