Nikon Imaging
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銀座ニコンサロン

2009年8月

三栖 幸生展





ときけい

8/5 (水)~8/18 (火)
10:00~19:00(最終日は16:00まで)
8/8 (土)、8/9 (日) 休館



<写真展内容>
作者が身の回りの景色を撮るようになったのは、懐かしい景色がどんどん変わっていくことへの郷愁を残しておかなければとの小さな使命感のせいだった。
撮り始めた頃は、日本全体が生活のリズムを無視したかのように激しく動いたときである。東京近郊の作者の住む町も日々に変化していた。バブルに踊らされ、そしてはじけた時代背景の中、変化する瞬間、懐かしい風景、気になった景色などにレンズを向けた。思いがけない景色に出会い、感動もした。そして作者は、新しくなることが文化なのだろうかと思った。
1990年から2008年までの19年間に、神奈川県の県央地区と呼ばれる厚木市、相模原市、大和市、海老名市、座間市、伊勢原市、綾瀬市、秦野市、愛川町、清川村とそれらの地域に隣接する横浜市、川崎市、町田市等が主な撮影地で、その景色はほんの数年経っただけなのに、今はすっかり変わってしまっているところが多い。しかし、写っているものはその時代に確かにそこにあったものである。
見慣れていたはずの景色は、時間の経過とともに作者の記憶の外に流れ去って、その景色は以前からの変わらぬ景色に映ってしまう。モノクロ60点。



<作者のプロフィール>
三栖 幸生(ミス ユキオ)
1945年神奈川県生まれ。64年神奈川県立厚木高校卒業。68年日本大学文理学部卒業。68~2006年厚木市役所勤務。06~09年厚木市市民ギャラリー勤務。日本写真協会会員。
写真展に、88年「風姿」(厚木市勤労福祉会館)のほか、厚木写友会(67年~)、東京カメラ倶楽部(92~07年)、モノクローム17人(07年)等のグループ展多数。

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黄 龍起(Hwang Yongki)展





筑豊・ケツワリ峠

8/19 (水)~9/1 (火)
10:00~19:00(最終日は16:00まで)
会期中無休



<写真展内容>
作者にとって「筑豊」は、あまりなじみのない地名であった。その地名が作品のテーマになったのは3年前のことである。
2006年、ある日の夕方、作者は「田川」で日本に住んでいる在日朝鮮人と初めて出会った。そして、その人とその家族たちに取り囲まれて筑豊の朝鮮人の歴史について聞かせてもらうことができた。「筑豊、田川、香春岳、炭鉱、朝鮮人、強制徴用、差別、飢え、事故、死、……」などなど。その筑豊の歴史が作者の心をより痛くした。その日に聞いた話は、作者の中に強く響いて、深く沈んだ。結局、作者は韓国に帰ろうとしていた計画を3年後に延ばした。
留学初期、作者は福岡出身のある先生に「福岡炭鉱」について尋ねたことがある。韓国の歴史の本で読んだ事があったからである。しかし、そのような炭鉱について先生はあまり分かっていないようにみえた。その後、作者は福岡炭鉱について尋ねることを諦め、そして来日以前から抱いていた在日朝鮮人に対する関心もますます弱くなっていった。後になって分かったことであるが、かつて福岡一帯には数多くの炭鉱があった。筑豊と大牟田、そして長崎等にある炭鉱までも韓国の歴史の本では総称して「福岡炭鉱」と表記していたのである。
「日本にも山がすごく多いなあ」と思ったのは、作者が筑豊にたびたび通うようになってからだった。筑豊は、山を越えてもまた山がある。韓国にも山がたくさんある。そして、そんな山にはまさしく民衆の哀歓がいつも伝説のように潜んでいる。
筑豊の方言に「ケツワリ峠」という言葉がある。それは、坑夫にとって炭鉱の仕事が大変つらいとか、炭鉱で不当に待遇された時、「誰にも分からないように逃げること」を意味する。
韓国にも同じように、民衆の苦難を表す「アリラン峠」という言葉がある。昔死刑囚にとってアリラン峠を超えるのは、死に向かって行くことであった。一人の人生においてアリラン峠は、生と死の分かれ道を意味している。筑豊に来た朝鮮の人たちは刻々そのようなアリラン峠に向かって行ったのである。
古くから「アリラン」は韓国で、民衆が自然に口ずさむ歌であった。アリランがある所にはいつも朝鮮の人たちがいる。いつからか、作者が筑豊の峠を越える時に、「アリラン、アリラン、アラ~リ~ヨオ」という歌の曲調が聞こえて来るようになった。
筑豊の炭鉱をテーマに決めてから、構想している作品がうまくできるかどうか、作者には不安があった。何故なら、筑豊で最後の炭鉱が閉山・廃鉱になったのは、今から40年ほど前に遡ることになるからだ。先ず作者は、炭鉱の象徴である「ボタヤマ」を捜してみることにした。ボタヤマは昭和新山という別称が付けられたように昭和の時代に一番盛んにできた。切り崩され、あるいは木々に覆われ、最初は気づいてなかった昭和新山の姿が段々作者の目に入るようになって来た。以前のような堂々たる姿ではないが、しかしながらその姿は昔の炭鉱が盛んであった時代を代弁してくれる手がかりであり、よすがでもあった。
その次に「炭鉱の住宅(炭住)」を探した。炭住には坑夫たちの家族の愛と痛みがこめられていた。「炭住はほとんど消えたよ」という言葉を多くの人々から聞かされた。しかし、作者の目には筑豊にあるほぼすべての家が炭住と同じように見えた。かつて筑豊に散在していた大部分の炭鉱住宅団地は市営住宅団地と公営住宅団地に変わっていた。小規模の炭住はそのまま新しく改良されていた。しかし、昔ながらの姿で残っている炭住も筑豊のあちらこちらで発見することが出来た。そこにはいまだに、昔の炭鉱に対する記憶を忘れずに持っている人々が暮らしていた。
作者はある旧炭鉱住宅団地を訪問した時、「あそこに朝鮮人が住んでいます!」と、日本人のおばさんから一人の在日朝鮮人のおばあさんを紹介してもらった。その人は古い炭住に今も住んでいた。生まれた場所も日本、韓国語も全然できない朝鮮の婦人。若かった時は朝から夜まで仕事をしていて、3人の息子たちを一人で育てたそうだ。末の息子が日本の女性と数ヶ月前に結婚したことを話しながら、その時のアルバムを取り出して見せてくれた。彼女は息子夫妻が近くに住んでいて、孫たちと楽しく過ごしていると言った。
筑豊にはこのような在日朝鮮人たちが多数暮らしている。これから、もう少し時が経ってしまうと、筑豊に朝鮮人がいた記憶さえ消えてしまうかも知れない。何故なら、多くの在日朝鮮人たちが日本国籍に変えているし、時とともに韓国語を忘れて行くからである。本展では、不幸にして悲しい歴史が再び繰り返されないためにも、過ぎ去った筑豊の人と事物を、今日の記録として残そうとする作品を展示する。
モノクロ約50点。



<作者のプロフィール>
黄 龍起(ファン ヨンギ)
1965年韓国鉄原生まれ。89年高麗大学生物学科卒業。2007年九州産業大学芸術研究科修士卒業。現在九州産業大学芸術研究科造形表現専攻博士在学中。
写真展に、(個展)98年「北漢山」(オリーブ ギャラリー/ソウル)、04年「クロシング ソウル」(ギャラリー ルクス/ソウル)、06年「ブリッジ・フクオカ」(アジアフォトグラファーズ ギャラリー/福岡)、「夜の蜃気楼」(新宿ニコンサロン)、07年同(大阪ニコンサロン、アジアフォトグラファーズ ギャラリー/福岡、福岡市美術館(市民ギャラリー)/福岡)、「21世紀の浮世絵」「筑豊・峠」「筑豊・ボタヤマ」(以上アジアフォトグラファーズ ギャラリー/福岡)、(グループ展)06年「六つの感覚」(コニカミノルタプラザ/東京)、07年「黄龍起+溝田喜一」(フォトグラファーズ ギャラリー/東京)、08年「消滅の技法」(福岡アジア美術館 交流ギャラリー/福岡)
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