Nikon Imaging
Japan
At the heart of the image.

vol.19 写真家の想いを形にする表現力。最新NIKKORレンズ対談

様々な要求に応えるため進化してきた、NIKKORレンズの描写性能。

2013年、NIKKORレンズは累計生産数8000万本を達成。写真家一人一人の美意識とこだわりに応えるため、1959年のFマウント用レンズ誕生以来、その描写力を磨き続けてきました。
今回は女性写真家2名をお迎えした、NIKKORレンズについての対談インタビュー。
1人は、広告写真の撮影はもとより講座やTVなど多方面で活躍しながら、独自のスタイルの作品を精力的に発表している佐藤倫子氏。
そしてもう1人は、ウエディングフォトやポートレートなどの撮影と並行して、東日本大震災で被災した故郷の今を写真で発信し続ける鈴木麻弓氏。
作風も活動も異なるお2人の、写真に対する想い。そして、その想いをサポートする最新NIKKORレンズの性能や使用感を伺いました。

1. 異なるアプローチで写真家へ。

「写真には特に興味が無かった」という共通点。

佐藤倫子氏。
鈴木麻弓公式サイト新しいウィンドウで開きます
佐藤倫子公式サイト新しいウィンドウで開きます
鈴木麻弓氏。

写真を始めたきっかけは何だったのでしょうか?

佐藤「趣味で写真を始めたわけではないのです。それどころか、もともと写真にもカメラにも興味がありませんでした。ただ高校生の時、大学生の兄がアルバイトをしていたストックフォトの会社によく遊びに行っていたので、プロの写真の仕事には触れていました。
同じ頃、将来は何かクリエイティブな仕事をしたくて、進路もその方面へと思っていました。画家、料理人、陶芸家…。様々な職業を紙に書き出し、自分の興味や適性と照らし合わせ考えたところ、どれもできそうにない。一番最後に残ったのが『写真家』だったのです。その時の直感で決めてましたね。
それから写真家になる道筋を考え、まず大学は写真技術科に入学。卒業後は資生堂の宣伝部に入ります。
大学では写真の楽しさと難しさを、資生堂ではプロの世界の厳しさを教えられました。
その場所ごとに、写真家になるための大切なことを学ばせて貰ったように思います。」

鈴木「私の実家は、東日本大震災で被災した宮城県の女川町で祖父の代から写真館を経営していました。そんな環境に育ちながら、子供の頃は職業として写真に関わろうとは考えていなくて…。
大学では政治経済を学びたいと思い受験をしたのですが、志望校に落ちてしまいます。ところが浪人中、なぜか写真の道へ導くような人達との出会いがあって、そこで初めて写真の勉強をしたいと思うようになりました。結局翌年、写真学科を受験し入学したのです。」

ご両親は家業を継いで欲しいと思っていたのでは?

鈴木「そのことをはっきりと両親から言われたことはありません。私は人から指図されるのが嫌いな子どもでした。それが両親ともわかっていましたから、強要をしたくなかったのでしょう。姉もいるのですが写真には興味が無かったため、内心は私を後継者にと思っていたのかもしれませんが、私としては写真館を継ぎたいという気持ちにはなりませんでした。
それというのも写真館は繁忙期が偏り、仕事が少ない夏によく両親が『夏はお金がない』などと言っているのを聞いて、子供ながらに『これは職業にしてはいけない』と思っていたのです(笑)。それに『写真』という仕事に関しても、父親の写真館業務しか見たことがなかったので、報道や広告といった仕事があることも知りませんでした。お客さんに喜んでもらう接客業といった印象が強かったですね。」

Nikon FM2

最初に使った自分のカメラは覚えていらっしゃいますか?

佐藤「進学にあたり写真科に進むと決めたものの、自分のカメラが無い。とにかくカメラのことがわからなかったので、カメラ店に行って店員さんに何が良いか尋ねたのです。するとニコンではないカメラを勧められ、言われるがままに購入したのが最初のカメラです。ところがそのカメラがあまり自分に合わず、それ以降はメーカーを限定せずに様々なカメラを試しました。
大学の卒業旅行の時も、せっかくアメリカまで行くのに中古のワゴンセールで500円のフィルムカメラを買って持っていきました(笑)。写真の質を重視するというよりも、トイカメラのような風合いだったり純正ではないクオリティの画質を、面白がって楽しんでいましたね。」

鈴木「私は浪人中に、Nikon FM2を知り合いから貸してもらったんです。そこからカメラの面白さにはまって、自分でもFM2を使うようになりました。実は父もニコン派で、幸いにも家には既に交換レンズが揃っていたんですね。
また学生の頃、ちょうどアンティークカメラがブームで、Nikon Fやニコマートなど、父が使わなくなった古いニコンのカメラをよく家から持ち出しては友達に自慢をしていました。」

広告業界の最前線で学んだ写真。(佐藤氏)

佐藤さんは、当初カメラに思い入れが少なかったとのことですが、ニコンのカメラに対してはどのような印象をお持ちでしたか?

佐藤「私はキャリアのスタートが資生堂の広告写真の仕事でしたから、主に使っていたのは4×5でした。だから当時は、ニコンというと特定のカメラの機種ではなく『NIKKORレンズ』のイメージが強かったですね。資生堂にはアシスタントとして入社し3年間在籍したのですが、ニコンの35mmに関しては退社後フリーになってから、というよりデジタルになってからの方が思い入れはあります。」

ずいぶん早くフリーになられたのですね。

佐藤「資生堂のアシスタントは、基本的に2年間で卒業するシステムなんです。
当時の自分にとって良かったと思うのは、第一線のクリエイティブの現場に最初から身を投じられたこと。またクリエイターをとても丁寧に育てて下さる環境でもあったこと。短い期間ですからね。多分、他の環境よりは撮影側へのチャンスも多かったと思います。そういったことで、独立へ向けての準備もできたのでしょうね。
アシスタント期間が終了した後も引き続き広告写真家として在籍したのですが、1年でフリーになりました。」

セミナー風景。

現在はどのようなお仕事をされていますか?

佐藤「仕事の内容は、写真撮影に留まらず多岐に渡っています。写真家として撮影に集中することはもちろん、同時に写真を巡る様々なニーズにも応えるため、自分で企画を作り、営業もし、ワークショップなども行い…。とにかく多角的に写真に関わる仕事をしているので、一言で仕事の内容を要約することが難しいですね。
デジタルカメラになってから、写真の世界も激変しました。かつては僅かにゴミが写り込んだだけでも撮り直しをしていたのに、今では修正ソフトを使えば一瞬で補正できてしまいます。また写真が活用される場も、特にネットを中心に随分広がっていますよね。
つまり写真を巡る状況や環境が大きく変わっている中で、写真家だけが以前と同じように、かつて自分が経験してきたジャンルの仕事だけを漠然と待っていては仕事の可能性は広がらないのではないかと…。未経験の新しい仕事のお話にも、積極的に関わるようにしています。
ただしベースにあるのは、プロとしての意識。それは今後も忘れてはならないことだし、撮影技術についてもより高いレベルを目指し精進をしなければならないと思っています。どのような仕事であっても、『プロの写真家』という立場からずれることはありません。それがあるからこそ、色々な仕事に繋げていくことが可能なのです。」

鈴木「本当に、デジタルカメラになって写真家を取り巻く環境もかなり変わりましたよね。特に4×5でNIKKORレンズを使っていたという状況から、デジタルカメラの35mmへの移行では、かなりギャップがあったことと思います。レンズだけの問題ではないですから。私の場合はまだ、フィルムからデジタルになっただけという感じなので。」

佐藤「ええ、確かに随分もがきましたね。」

海外で見つけた、写真家への新たな道。(鈴木氏)

鈴木さんのここまでの経緯を伺えますか?

鈴木「大学を出てからずっとフリーで活動しています。
最初は仙台で雑誌の仕事でした。編集に知り合いがいたこともあって、いきなり地元ファッション誌の表紙写真を撮ることになったんです。」

それは凄いですね。

鈴木「ご縁に恵まれていましたね。それ以降も、雑誌に掲載する写真やミュージシャンのポートレートなど、好きな被写体を撮るという生活をしばらく続けました。
しかし仕事というには収入が安定していませんでしたし、これでは社会人として自立していると言えないのではないかと考え、悩んだ末、写真の仕事は辞めようと決意したんです。
そこでカメラを実家に置いたまま、ワーキングホリデーのビザを取ってカナダに行きました。きっと海外での生活の方が自分には合っている、あちらでウエイトレスでもやって暮らしていこう、そう思っていたんです。しかし現地で職探しを始めた初日、『フォトグラファー募集』の貼り紙を見つけてしまったのです(笑)。もちろんポートフォリオも何もありません。でも面接に行ったら、『あなたの人柄が気に入った』ということで即採用。また写真の世界に戻ってくることになりました。」

サイパンでのウエディングフォト。

仕事はなんだったのですか?

鈴木「ブライダルフォトの撮影でした。日本からハネムーンで来たカップルの写真を撮影するという仕事です。お客さんも日本人だから英会話の能力もそれほど必要ではありませんでした。
カメラは会社で用意すると言ってくれたのですが、使い慣れたカメラが良いと、実家からカメラバッグを送ってもらいました。父には『なぜカメラを置いていった』と怒られましたが、『写真を辞める気だった』とは言えずごまかしました(笑)。
結局そこで1年間撮影をしていました。それまで限られた世界しか見て来ませんでしたが、このような写真の仕事もあるのだということ、そして自分がフォトグラファーとして役に立てる仕事があるのだということを初めて知りました。
帰国した時、ちょうど日本でもウエディングのスナップを撮るサービスが流行り始めていましたので、そのまま続けて今に至ります。
他にも学校アルバムの撮影なども行っています。平日は学校、土日はブライダル。普段は休みなく働き、8月や1、2月は学校もブライダルの仕事もなかったので、その期間はまとめて海外に行くといった暮らしをしていた時期もありました。私としては理想的な仕事のペースでしたね。」