Nikon Imaging
Japan
At the heart of the image.

第二十六夜 Ai Micro Nikkor 55mm F2.8 (後編)

マイクロニッコールの歴史と真実、そして伝承
Ai Micro Nikkor 55mm F2.8 (後編)

今夜は第二十五夜に続き、マイクロニッコールのお話をします。ニッコールの歴史を語る上で、最も重要なレンズの1本である「マイクロニッコール」。
二夜目の今日はAi マイクロニッコール 55mm F2.8開発と描写特性についてお話しいたします。

佐藤治夫

1、マイクロニッコール 55mm F2.8の開発

マイクロニッコールの口径を上げよ。あの定評のある脇本氏の銘レンズを改良せよ。当時の開発計画は光学設計者に大きな難題を与えました。その難題を成し得たのは当時の光学部第一光学課に在籍していた濱西芳徳氏です。濱西氏は55mmや60mmのマイクロニッコール以外にも、多くの銘レンズを生み出しています。濱西氏は中村壮一氏からズーム設計法を伝承した一人で、特に望遠ズームの設計には目を見張るものがありました。Ai 80-200mm F4、ED 80-200mm F2.8、AF ED 80-200mm F2.8と、濱西氏の設計を挙げると、Aiニッコール望遠ズームの代表レンズが殆ど名を連ねてしまうほどです。また、濱西氏は非常に優秀な方で、光学理論、特にズームレンズの設計法に関する考察では秀でていました。

私が新人のころのお話です。ある日、私は濱西さんに多群ズームの解曲線を算出する方法を教えていただきました。濱西さんは「勉強になるので、読んでみると良いよ(理解せよという意味)」と机の上に、どさっつと沢山の資料を置きました。そして笑顔。私は目が点になって、恐る恐るページを開きました。そこには自らが導出した手書きの数式がいっぱい書かれていました。私はなんとか理解しようと、数式を追っていきました。しかし、数式が美しすぎて、劣等生の私には理解できないのです。なんと、原因はごちゃごちゃとした数値や因数をすべて係数で括って、非常に綺麗な関数に整えていたのです。優秀な人には物理的意味がピーンとくるのでしょうが、悲しいかなその時の私には、その意味が理解できませんでした。結局、導出からやらなければ理解できず、胃が痛くなる思いをしたものです。

しかし、仕事に厳しい濱西さんの素顔はとても気さくで愉快な方です。特にプライベートの逸話にも困らない方でした。なかでも濱西さんの血液型人間学が、職場では有名で、「光学設計者の血液型別仕事の進め方」などは、納得するやら感心するやらで、とても楽しいものでした。ちなみに私はO型なのですが、濱西説によると「大胆かつ豪快な設計をする」らしいです。はたして当てはまりますでしょうか?そんな濱西さんは私にとっても良い師匠でもあり、良い先輩でもありました。現在は別セクションの光学設計部門の責任者として設計者を育てています。今も新人の机の上に、どさっと資料を置いているかもしれません。

2、描写特性とレンズ性能

Ai Micro Nikkor 55mm F2.8の断面図

さて、光学系の説明に入ります。断面図をご覧ください。マイクロニッコール55mm F2.8は、まさしく典型的ガウスタイプのレンズであることがご理解いただけるでしょう。それはマイクロニッコールの長い歴史を支えてきた、クセノタータイプからの決別を意味しました。濱西氏はクセノタータイプより大口径化に有利で、近距離収差変動の少ないガウスタイプを選択したのです。その効果により、F3.5のレンズはF2.8に進化し光学性能も改良されました。

また、特記すべきは近距離補正方式の採用です。濱西氏は、従来の広角・超広角に使われていた近距離補正方式を、ガウスタイプのマイクロレンズに応用したのです。今までのレンズでは、無限遠と1/2倍の収差を巧みにバランスさせていました。しかし、像面湾曲とコマ収差の変化は、近距離収差変動に強い対称型のクセノターやガウスタイプでも如何ともしがたいものがありました。したがって、各社の設計者はF値を暗くする事で、設計自由度を確保し、近距離収差変動を押さえ込んでいたのです。しかし、次のマイクロニッコールはF2.8にしなければなりませんでした。したがって、何らかの方策が必要になったのです。そして、濱西氏は近距離補正機構を持ったガウス型マイクロレンズを生み出します。この近距離補正機構はAFマイクロニッコール55mm F2.8で等倍を実現し、さらにAFマイクロニッコール60mm F2.8で微妙な描写特性を考慮する設計まで可能にしたのです。

それでは、Aiマイクロニッコール55mm F2.8はどんな写りをするのでしょうか。まずは光学設計書を紐解いて見ましょう。

遠景からポートレート距離における収差的特徴は、球面収差が非常に小さく押さえ込まれていることでしょう。また、非点収差も小さく、倍率の色収差も良好に補正されています。これは、高解像、高コントラストを予感させる収差バランスです。さらに歪曲収差にいたっては、さすがマイクロレンズと思わせるほど小さく収まっています。また、コマ収差に若干特徴があり、ボケ味を少々堅くする傾向が読み取れます。次に撮影倍率1/10倍から1/2倍の収差的特徴はどうでしょうか。まず、球面収差が若干増加し、コマ収差も外コマ傾向に変化します。しかし、十分なシャープネスが維持され、結像性能は良好です。むしろ、コマ収差の影響でボケ味の堅さが緩和され、接写に向く描写特性になると推測できます。

それでは、実写結果から描写を考察してみましょう。まず、遠景実写の結果を考察します。開放F2.8~F4では微量のフレアーで適度なコントラストの圧縮がありますが、解像感のある描写です。F5.6~F11ではフレアーも消え、高コントラスト、高解像力の画質になります。マイクロニッコールらしいキリリとしたシャープ感を体感したいのであれば、この絞り領域で使用するのが良いかもしれません。F16~F32では回折の影響が発生し始め、徐々に解像感が低下します。次に近景・マイクロ領域の実写結果を考察します。開放F2.8~F4では遠景ほどフレアーは目立たず、解像感のあるシャープな描写を見せます。他の絞りでは、遠景実写の傾向に類似した描写の傾向を持っています。

次に作例写真で描写特性を確認してみましょう。作例1、2はどちらも開放絞り(F2.8)で撮影しました。作例1(第二十五夜の作例2も同様)はポートレートの作例です。マイクロレンズなので、少々近づいて撮影しました。瞳に写ったキャッチライトや髪の毛の描写から明らかなとおり、非常に高解像力でコントラストのある描写をしています。むしろ若干堅い描写で、作風がドキュメンタリータッチに仕上がります。したがって、この描写特性を最大限に利用すれば、このレンズ特有の写真表現が出来るのではないかと思います。

また、作例2(第二十五夜の作例1も同様)はマイクロニッコールの本領発揮と言うべき撮影領域の作例です。ピントの合っているところは非常にシャープであり、金属光沢をきれいに再現しており、豊富な階調を持っていることがわかります。また、ボケ味も良好で、この撮影領域で最も自然な描写をします。

まさに、このレンズは無限遠から1/2倍までを写せる万能レンズでした。以前は標準レンズの代わりに、常用レンズとして購入するお客様が多かったと聞いています。その秘密は、この描写特性、特にシャープネスに理由があったのです。濱西氏の勝利です。師を超えることが出来たのです。さぞかし嬉しかったに違いありません。

濱西芳徳という人

濱西さんは一度、女子高の先生を経験されて、その後ニコンに入社されたと言う珍しい(うらやましい?)経歴の持ち主でした。それに、何を隠そう、若かりし濱西さんは今で言う「イケメン」だったのです。私にはそこで、純粋な疑問が...。「何で、女子高の先生を辞めたんだろう?」私は濱西さんに聞いてみました。しかし、ハッキリした答えは返ってきません。??疑問は増すばかり。すると、濱西さんが重い口を開けて、ぼそっと言いました。「志を持って教師になったが、まじめに物理を勉強したいと言う子はそんなに居なくてねぇ...。」

人にものを教えるという事はとても難しい。教師には教わる側の数倍、数十倍の努力と勉強が必要です。学校でも社内でも良い教師になることは、並大抵のことではないでしょう。人は努力した結果を評価されることで、達成感を得ます。そして、次の仕事や勉強の活力とするでしょう。教師も同じです。きっと私も高校の教え子と同様に、濱西氏のできの悪い生徒だったに違いありません。私はいまさらながら反省しています。