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第十七夜 <New>PC-Nikkor 28mm F4

大判カメラの技を求めて
<New>PC-Nikkor 28mm F4

第十七夜は、現在まで脈々と続く「PC(Perspective Control)ニッコール」の歴史と、その代表的存在の「<New>PC-NIKKOR 28mm F4」をご紹介いたします。

佐藤治夫

1、PC(パースペクティブ・コントロール)の発想

昭和36(1961)年、当時の日本光学工業(現ニコン)の先駆者たちは、一眼レフカメラ用交換レンズで世界初のアオリ可能な写真レンズを誕生させました。「PC-NIKKOR」と命名されたそのレンズは、昭和37(1962)年7月に発売されて話題を呼びます。当時の開発者の思いは、“大判カメラの至極当然なテクニックであるアオリを、機動性の良い35mm(135)判一眼レフで実現する事”でした。私は発売当初の「PC-NIKKOR 35mm F3.5」の使用説明書を開いて驚きました。そこにはアオリ効果の説明や用途はもとより、試作品の解説や開発履歴まで書かれていたのです。

使用説明書

その使用説明書を一読するだけで、当時の開発者たちの写真やカメラへの強い思いと、豊富な知識が伝わってきます。初代の「PC ニッコール 35mm F3.5」が完成するまで、大別して3種類の機構(鏡筒)設計試作が行われました。

最初の試作品には、驚く事にティルト機構も備わっていました。しかし、「35mm判広角レンズは、大判レンズと異なり被写界深度も十分深い為、ティルトの使用頻度は小さい」と判断して省略したようです。そのおかげで実に小型で、機構も簡素で扱いやすいレンズが出来上がりました。

「PCニッコール」の場合、光学設計よりも、はるかに機構(鏡筒)設計の難易度が高かったと思います。一般に、ボディの機構設計者に比較して、レンズの機構(鏡筒)設計者は、苦労の割に脚光を浴びる事が少ないと思います。何故なら、交換レンズの場合、「設計=光学設計」と思われがちだからです。しかし、今回取り上げた「PC-NIKKOR」の開発などは、まさしく“機構(鏡筒)設計者の腕一つにかかっていた”と言っても過言ではないでしょう。世界初の「PC-NIKKOR」の機構(鏡筒)設計には、驚くほどユニークなアイディアが、たくさん盛り込まれて使い易い機構になっていました。

2、開発履歴

ニコンは昔から大判レンズを作り続けています。したがって、社員の中にも立派に大判カメラを使いこなしている者も少なくありません。時代はまさに、距離計連動式S型カメラから一眼レフF型カメラに移行しようとしていました。一眼レフのメリットを最大限に引き出すため、「Nikon F」の開発と時期を同じくして、「PCニッコール」の発想が生まれたのです。それでは、「PCニッコール」の履歴を紐解いてみましょう。

まず、初代「PC-NIKKOR 35mm F3.5」(6群6枚構成)は、37(1962)年7月に発売されます。そして、43(1968)年5月に、大口径化のために新設計した「PC-NIKKOR 35mm F2.8」(7群8枚構成)が発売され、世代交代します。その後、51(1976)年4月に、外観などを改めた「<New>PC-NIKKOR 35mm F2.8」、55(1980)年11月に鏡筒設計をリニューアルした「PC-Nikkor 35mm F2.8」が登場します。

一方、更なる広角化の要望に答えて、50(1975)年7月に「<New>PC-NIKKOR 28mm F4」(8群10枚構成)が発売されます。さらに、56(1981)年2月にF3.5に大口径化された「PC-Nikkor 28mm F3.5」(8群9枚構成)が発売され、22年経った現在では、多層膜コーティングをSIC(ニコンスーパーインテグレーティッドコーティング)に改良して継続販売しています。さらに、「大判ニッコールのような、物(ブツ)撮りに最適な、中望遠のPCレンズが欲しい!」と言う要望にお答えして、従来のシフト機構にティルト機構を加え、絞り機構を改良した、「PC Micro-Nikkor 85mm F2.8D」を開発し平成11(1999)年9月に発売しました。このレンズは、「マイクロ」のその名の通り、近接撮影性能にも優れているばかりか、デジタルカメラ「D1」シリーズなどと組み合わせて使うと、135判の約127.5mmレンズ相当の画角になるため、コマーシャルフォト(商業写真)の分野で大いに好評を博しています。先人の「PCニッコール」に対する熱い思いはさらに発展し、脈々と受け継がれているのです。

それでは、「<New>PC-NIKKOR 28mm F4」にスポットを当ててみましょう。光学設計は、第九夜に登場した森征雄氏です。光学設計報告書は、昭和49(1974)年に作成されています。森氏はもともと、大判ニッコール、中判用ニッコールのメイン設計者で、かつ広角・超広角レンズの光学設計に類(たぐい)まれな能力をお持ちの方でした。ちなみに、「望遠(長焦点)レンズ」、「広角レンズ」と言ったカテゴリー分けは、本来、焦点距離で分別するものではなく、画角で分別するべきなのです。大判カメラのように、一つのカメラで複数のフィルムフォーマットを使用するカメラを想像すれば、理解できると思います。

通常、35mm一眼レフ用28mmの画角は約74度ですが、PCニッコール28mmの最大画角は90度もあります。35mm(135)判に換算すると約20mmの画角に相当するのです。「PCニッコール」はその大きなイメージサークルを使い、自在に構図を決めることで、像の変形・補正を可能にしたレンズなのです。しかし単にシフト(アオリ)と言っても、どのくらいのシフト量があれば像の変形・補正が可能なのでしょうか。世界に前例がないわけですから、だれも答えを教えてくれません。「PCニッコール」の最大シフト量の決定には、大判レンズのノウハウが必要だったに違いありません。その点でも、光学設計者には、森氏が適任だったのです。

3、レンズの描写

断面図

まず、断面図をご覧ください。「<New>PC-NIKKOR 28mm F4」は、典型的なレトロフォーカスタイプのレンズである事が分かります。8群10枚構成と比較的構成枚数が少ないですが、第一レンズに凸レンズを配し、ディストーション(歪曲収差)を極力減らそうと言う設計意図が窺え(うかがえ)ます。それでは、「PCニッコール 28mm F4」はどんな写りをするのでしょうか。収差特性と実写結果の両方から見ていきましょう。

収差値を見て初めに気がつくことは、シフト0時の状態で、メリジオナルコマフレアとサジタルコマフレアが全域で少ないことです。このことから、このレンズがヌケの良い高コントラストの描写特性を持っていることが期待できます。最大シフト時の近傍では、若干、非点収差とコマ収差が発生し画質低下は否めませんが、広い画角あるいは広大なイメージサークルを考慮するとやむを得ないところです。また、倍率色収差は若干大きめですが、実写では際立った問題にはなりませんでした。また、周辺光量についても良好で、非常に豊富です。

特記すべきはディストーション(歪曲収差)の少なさでしょう。このレンズは広角レンズでありながら、画角が90度のイメージサークル全体を見回しても、最大-2.6%と良好に補正されています。ニコンのPCレンズに対するこだわりは、ここにあるのです。実は、PCレンズにとってディストーションは天敵なのです。なぜなら、「パースペクティブによる歪み」を除去するためのPCレンズに「ディストーションによる歪み」が残っていては、PCレンズの存在意義や価値が半減してしまうからです。ディストーションで発生する歪みは、近年の画像処理ソフトウェアの登場までは、撮影時には何をやっても除去できないのです。

それでは、作例1、2をご覧ください。作例1は、シフト機構を用いて歪みを補正した作例です。作例2は、シフト機構を逆方向に使い、歪みを逆に最大限に発生させた作例です。みなさんは、一見してこの二枚の作例が同じ焦点距離のレンズで写したと思われましたか?おそらく何の説明もなければ、「作例1は標準クラスのレンズで写した写真。作例2は超広角レンズで写した写真」と思ってしまうでしょう。先駆者達が、「PCニッコール」で実現したかった大判カメラの技は、まさにこれだったのではないでしょうか。

それでは、肝心の描写はどうなのか?両方の作例をご覧くだされば、十分なシャープネスと豊富な階調を持っていることがお分かりいただけると思います。私の実写結果によれば、このレンズはどちらかと言うと解像力重視ではなく、コントラスト重視の描写傾向が窺えます。実写ではf/8~11の絞りで最適な描写特性を発揮しました。

枠屋の吹野さん

私達技術者は、お互いの事を呼ぶ呼び合う時に、分野名を冠して“○○屋さん”と呼ぶ事があります。この呼び名は、一種の技術者の「方言」かも知れません。私のような光学設計者は“光学屋”、機構(鏡筒)設計者は“金物屋(あるいは枠屋)”、電気回路設計者は“電気屋”と言うように、お互い愛称のように呼び合うものです。一般に「交換レンズの設計」と言うと、光学設計を思い浮かべますが、光学設計だけでは「画に書いた餅」なのです。優秀な機構(鏡筒)設計者や回路設計が有ってこそ、皆様に使っていただける商品になるのです。特に道具としての使い勝手は、機構(鏡筒)設計者のこだわりと知恵で決まると言っても過言ではないと思います。

今回はニコンの枠屋さんの中から、最も長くこの仕事に従事されている吹野邦博さんをご紹介します。吹野さんは非常に経験豊富で、枠屋仲間のみならず、我々光学屋からも信頼されています。面白いアイディアが浮かんだ時や、逆に窮地に立たされた時に相談に行く相手は、決まって吹野さんです。吹野さんは「PCニッコール」に関しても、数々のアイディアをお持ちでした。その成果は「PC 28mm F3.5」の軽量化や操作性向上、「PCマイクロニッコール 85mm F2.8D」のティルト機構、プリセット絞りの改良に生かされています。私は吹野さんのバイタリティと衰えない探究心には日々敬服するばかりです。我々の業種に限った事ではないですが、長年一つの仕事に従事された方と言うのは、何事にも代えがたい知識と洞察力を持っておられます。本当に頼りになります。ニコンにはベテラン技術者がまだまだ数多くおられます。私はこのことが社風や資質の源になっているのだと思います。

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