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第二十五夜 Ai Micro Nikkor 55mm F2.8 (前編)

マイクロニッコールの歴史と真実、そして伝承
Ai Micro Nikkor 55mm F2.8 (前編)

今夜は皆様の御要望にお答えして「マイクロニッコール」が登場します。「マイクロニッコール」はニッコールレンズの歴史を語る上で、最も重要なレンズの1本です。「マイクロニッコールはどうやってできたのか?」、「なぜ、マイクロなのか?」「だれが開発したのか?」・・・。マイクロニッコールを語ると、一晩では話しきれません。今回は異例ですが、二夜に分けてお話いたします。
まず、一夜目はマイクロニッコール誕生秘話です。そして、二夜目にAiマイクロニッコール55mm F2.8開発と描写特性についてお話し致します。乞う御期待。

佐藤治夫

1、マクロとマイクロ

「マクロレンズ」は社会的に認知された近接撮影用レンズの一般名称です。では、「マイクロレンズ」はどうですか?学術的にはどちらが正しいのでしょうか?なぜ当時の開発者は近接撮影用レンズに「マイクロ」の冠を付けたのでしょうか?そこには厳密性を重んじた当時の開発者たちの思いがあったのです。

マクロ写真の定義を古い写真用語辞典で引くと「原寸大以上の倍率で撮影する写真」と定義されています。したがって、マクロレンズは顕微鏡のような拡大光学系を指すのです。しかし、S型カメラの時代では、近接撮影用レンズは、せいぜい撮影倍率1/2倍から等倍までの縮小光学系です。したがって、マクロレンズ(=拡大倍率で撮影できる光学系)ではないのです。当社は他に立派な拡大光学系(顕微鏡等)を開発・販売していました。当時の開発者は、はっきりとしかも正確に区別をしたかったのです。開発者たちは厳密な「定義」を良しとし、「売りやすさ」に背を向けました。

2、漢字が生んだ「マイクロニッコール」

作例1

マイクロ写真とは、いわゆる複写・縮写を連想させるものでした。太平洋戦争直後の日本では、貴重な歴史的資料・書物の保管に、米国の最先端技術であったマイクロファイルシステムの導入を決めたそうです。しかし、当時のシステムに装備された光学系では、F値が暗く解像力も不足していたのです。では、なぜその様な不完全なシステムが、全米を一世風靡したのでしょうか?そこには言葉(文字)の落とし穴があったのです。

この光学系に要求された精度は、アルファベットの小文字の「e」と「c」判別が可能であることでした。米国の場合、英字新聞の縮写が解像限界であっても何とか使えたわけです。ちなみに、ドイツのメーカーのレンズは、もう少し解像力が高かったようです。これはドイツ語のウムラウト等を識別するため、米国のシステムより少し高い解像力を必要としたのではないかと、私は推測しています。しかし、このシステムで漢字を解像する事は不可能でした。特に当時の漢字は字画が多いために、判別にはアルファベットの数倍もの解像力が必要だったのです。

文化というものはおもしろいものです。本来、我々東洋人は視力も良く、細かい作業に向いていると言われています。その根底には使用している文字の細かさが関係しているのかもしれません。まさにマイクロニッコールは日本の文化、日本の文字が育んだと言っても過言ではないでしょう。

前記のような日本を取巻く環境と背景があり、官民合同で検討が始まりました。そして、当時東大理学部教授であった小穴教授のご依頼という形で、マイクロニッコールの開発が始まったのです。産みの苦しみは「漢字」という文化をもった日本ゆえの事でした。設計上の試行錯誤を繰り返し、二度の試作を経て、マイクロニッコール5cm F3.5が完成します。小穴教授は完成したばかりのマイクロニッコールを使い、樋口一葉著「たけくらべ」の単行本全文70ページをマイクロカード1枚に納め、世の中の人々をあっと言わせました。マイクロニッコールの優秀さをアピールすることになった「たけくらべの逸話」がここに誕生した瞬間でした。

3、マイクロニッコールの開発履歴

作例2

小穴教授からのご依頼を受けて、マイクロニッコールの開発に従事したのは東氏と脇本氏でした。東氏は小穴教授の同窓でした。また小穴教授は脇本氏の恩師ときています。否が応でも粉骨砕身努力することは明らかでした。そして、昭和31年にS型カメラ用マイクロニッコール5cm F3.5が発売されました。このレンズは、クセノター型の独創的なものでした。

製品担当は東氏になっています。私の調査では、実際に主設計者が東氏であったのか、脇本氏であったのかは不明でした。しかし当時は、製品担当者が光学設計を最終的にまとめた人である事が通例なので、東氏の設計であった可能性が高いと思います。いずれにせよ協力関係にあったことは間違いがないようです。

そして時は過ぎ、ニコンFの時代になります。脇本氏は定評あるS用のマイクロニッコールのバックフォーカスを長くするために、修正設計しました。その結果、焦点距離を5mm伸し、「マイクロニッコール」の名を不動のものにした「マイクロニッコール55mm F3.5」が誕生します。まず昭和36年に、鏡筒単体で等倍まで撮影可能なマニュアルのタイプのレンズが発売されました。そして、昭和38年に光学系は共通で、レンズ単体の最大撮影倍率を1/2倍に抑え、オート絞り機構を備えたマイクロニッコールオート55mm F3.5が発売されます。このマイクロニッコール55mm F3.5はAiマイクロニッコール55mm F2.8が発売されるまでの約19年間、光学系の基本設計を変えることなく販売し続けたのです。

脇本氏と小穴教授との関係はこのレンズの誕生でますます深まります。小穴教授は各種写真レンズや各種対物レンズの解像力を試験するテストチャートの研究をされていました。当時、小穴教授の目下の課題はそのチャートの原版作成でした。しかし、原版を写真製版によって作成するとしても、使えるレンズが無いのです。高性能レンズを評価するためにテストチャートを作成するのです。当然、チャートを作成するためのレンズは、それらよりも更に群を抜いてシャープなレンズである必要があります。

そこで、小穴教授は理論解像力に限りなく近い解像力を持つ、超マイクロニッコールの開発を脇本氏に依頼します。それがウルトラマイクロニッコールの誕生に結びつきます。そして、この開発と経験がニコンの新たな未来を生み出すことになるのです。

第一夜はここで終了です。第二夜はいよいよAiマイクロニッコール55mm F2.8のお話しです。どのような写りなのか?その描写の秘密は何か?設計者はどのような人物か?次回をお楽しみに。

まぼろしのマクロニッコール

お客様に「マイクロニッコールがあるのに、マクロニッコールは無いの?」と聞かれることがあります。実はきちんと存在しています。ここで、ちょっとだけ開発の裏側を見てみましょう。

実はF用マイクロニッコールの開発時期と時をあわせて、顕微鏡部門でもマクロ写真装置開発の計画が進行していました。この開発が大型マクロ写真撮影装置(マルチフォト)につながります。妥協の無い商品開発は、まさしくニコンの伝統です。計画はラージフォーマットを基準としたカメラ(撮影装置)まで発展していきます。その開発の中で数本のマクロニッコールが誕生します。

また、当時のカメラ部門でも35mm判マクロニッコール計画がありました。スペックの異なる3種類のマクロニッコールが設計・試作されました。光学性能は充分満足できるものだったと記録にあります。しかし、当社(顕微鏡部門)には既に本格的なマクロ撮影装置の計画があったのです。したがって、大変残念なことにFマウントのベローズに対応するマクロニッコールの商品化はされませんでした。しかし、マクロニッコールはその後、産業用、工業用には「プリンティングニッコール」へ発展し、写真用には大判カメラ用の「アポマクロニッコール」に発展していくのです。いずれにしても、高解像で光学系としては究極の姿でした。

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