Nikon Imaging
Japan
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銀座ニコンサロン 2015年11月

佐野 久里子写真展

写真
In Situ
10/21 (水) ~11/3 (火)
10:30~18:30(最終日は15:00まで)
会期中無休

写真展内容

日常目にする光景の中、
その瞬間にしか存在しない光と影が作り出すかたちに
ものの名前や意味を超えた、美しさと脅威の内在を私は見る。

明暗差によって、あるかたちは浮き立ち、またあるかたちは沈み行く。
輪郭をなぞろうと、近づきたくなるその世界に
私自身を寄せつけない排他的な存在を感じる。

それらの写真は、
私自身が本当にそこにいたのだろうかという奇妙さと、
そこにいたという紛れもない事実を、教えてくれる。(佐野久里子)

※In Situ (イン・スィトゥ):〈ラテン語〉本来の場所にて、原位置にて
モノクロ40点。

作者のプロフィール

佐野 久里子(サノ クリコ)
1975年神奈川県生まれ。2009年に渡部さとる「写真ワークショップ2B(29期)」を受講。10年から「カロタイプ フォトワークショップ」講評講座(講師:白岡 順)を受講中。
写真展(個展)に、12年「moire-モアレ-」(銀座ニコンサロン)、14年「真昼」(ギャラリーパストレイズ/横浜)、同年「白磁」(Gallery+PLUS/東京)がある。グループ展に10年 「holic」 (ギャラリー・ル デコ/東京) 、11年「BAITEN collection」(ブルームギャラリー/大阪)がある。そのほか、13年「アート札幌」、同年「シンガポールアートブックフェア」、同年「ニューシティアートフェア」(ニューヨーク)、同年「アインシュタインスタジオ企画「WonderBox」に出展。ギャラリー「LA Noble Gallery」(ロンドン)の代表作家に加わる。雑誌では『日本カメラ』(2014年11月号)に作品を掲載。作品はフランス国立図書館(パリ)にコレクションされている。

鷲尾 倫夫写真展

写真
巡歴の道 オキナワ II
11/4 (水) ~11/17 (火)
10:30~18:30(最終日は15:00まで)
会期中無休

写真展内容

日本・沖縄の歴史に対し、無知ゆえに無関心でいた。其処から私の沖縄通いが始まった。沖縄の今、人々の日常生活に一歩踏み込み、一齣、一齣を拾い集め、悲しい時代、昭和の歴史全体が見渡せる写真を切り撮りたいと考えた。想像に応える写真、写真としての存在感があり、人々の心に落としたいと、視点をここに置き挑み続けている。
何回も足を運んでいる洞窟に意を決し、深夜に出向いた。入口まで来ると真暗闇だった。摺り足で階段を降りた。目の前の小川の水流音が不気味に響き、尖った神経が、激しい動悸に変わった。空気は湿っぽく重い、風がない、樹々の葉に覆われ空は隠れていた。目を凝らしあたりを見回すが何も見えない。身体は小刻みに揺れだし立っていられない。尻を地面に落としても呼吸の乱れからくるのか、体は治まらない。少しでも動くと足下で骨の折れるような音が全身を縮みあげる。逃げだしたかったが方向感覚を失っていた。恐怖感が心身に駆け巡り、体を丸め頭を両手で抱え、おでこを膝に置きじっとしているしかなかった。思考能力は働かなかった。瞼にうっすらと明るいものを感じ、目を開くと階段の上に薄い光が斜めに射していた。五時間余り洞窟を目の前にしていたはずなのに背を向けていた。多くの命を奪った聖地に我が身を寄せることで何か見えて来るのでは。しかし何も持ち帰ることは出来なかった。のちのち洞窟での体感は私を変えた。私に、私の在り方をみる貴重な時間だった。
今まで不躾に聞きにくい事を聞くのが、仕事と思いあがっていた。それ以来、高齢者たちの心に染み広がる傷口を切り開いて、塩をすり込む話を持ち出すことはなくなった。内なる傷を明かさないのは、我が身を守るためではないのかと、私は想像できるようになった。(鷲尾倫夫)

作者のプロフィール

鷲尾 倫夫(ワシオ ミチオ)
1941年東京都生まれ。60年愛知県国立高浜海員学校修了。60年東洋海運 (現・新栄船舶)に入社し、72年同社退職。73年日本写真学園研究科卒業。81年から「FOCUS」(新潮社)編集部専属カメラマンとして20年間在籍。83年日本写真学園主任講師になる。
写真展(個展)に、72年「東アフリカ・マガディン村の人々」「そのままで、君たちは」(以上新宿ニコンサロン)、76年「日々一生」、77年「寿町えれじぃ」、80年「冠婚葬祭」(以上銀座ニコンサロン)、81年「顔・エトセトラ」、(銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン)、84年「ヨボセヨ」、86年「ヨボセヨⅡ」、89年「原色の町 ソウル84-88年」、91年「1977年-13年-1991年 エトセトラ」、94年「顔・エトセトラⅡ」、98年「韓国」(以上銀座ニコンサロン)、2003年「ソウル・シティ」(PLACE M)、04年「野球人」(ギャラリーコスモス)、07年「原色のソナタ」(PLACE M)、09年「写・写・流転」、10年「望郷・エトセトラ」(以上新宿ニコンサロン)、13年「巡歴の道 オキナワ」(銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン)、14年「THE SNAP SHOT」(JCIIフォトサロン)がある。
写真集に、90年『原色の町』(IPC)、00年『写真』、07年『THE SNAP SHOT』(以上ワイズ出版)、08年『原色のソナタ 1992~95 SEOUL』(PLACE M)がある。
受賞歴に91年伊奈信男賞特別賞、96年編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞がある。

菊池 東太写真展

写真
日系アメリカ人強制収容所
WAR RELOCATION CENTER
11/18 (水) ~12/1 (火)
10:30~18:30(最終日は15:00まで)
会期中無休

写真展内容

本展では、第二次世界大戦開戦時に設けられた日系アメリカ人強制収容所を訪ねて撮影した作品を展示する。
当時、アメリカに居住していた日系アメリカ人は12万7,000人。その95%、12万0,313人が大統領令によって強制収容された。収容された日系人の70%がアメリカの市民権を持つ米国民だった。かれらは移住の命令を受けると、ほぼ1週間以内に手に持てるだけの荷物(トランク2個)を持って指定された集合センターに集結させられ、列車で収容所に送られていった。収容先はカリフォルニア(2カ所)、アリゾナ(2カ所)、アーカンソー(2カ所)、コロラド、ワイオミング、アイダホ、ユタの10カ所におよんだ。
夏には摂氏50度を超える灼熱の地だったり、逆に冬にはマイナス30度を超える酷寒の地だったり、ガラガラヘビが棲む砂漠や、湿度90%の湿地とさまざまな環境である。収容者の大半はロサンゼルスなど街中の住民が多く、このような過酷な環境には不慣れな人が多かった。しかし過疎地とはいえ、たいがい移住先の近くには町があり、ともすれば収容者のほうが現地のアメリカ人よりも身なりがよかったり、町には電気のない生活を送っている人がいるのに、収容所には電気がきていたこともあったりして、周辺に住む者と収容されている者との間にはさまざまなトラブルがあった。しかも各収容所の人口は1万人前後と近隣の町より大規模だ。
終戦とともに収容所は閉鎖され、かれら日系アメリカ人たちは解放された。現在、跡地の大半は内務省国立公園局の管理下に置かれ、歴史保存地区として見学者を受け入れているのが現状だ。兵舎仕様のバラックのあった跡地は畑になっていたり、和風庭園の跡と思われる大きな庭石が残っていたり、終戦後買い取られたバラックが近隣の町で今も住居や物置として使用されていたり、さまざまな状況がある。
1988年8月10日、合衆国大統領ロナルド・レーガンは議会で元収容者たち日系人へ強制収容について謝罪し、1人につき2万ドルを支給することでこの問題に決着をつけた。

作者のプロフィール

菊池 東太(キクチ トウタ)
1943年大阪府生まれ。出版社勤務の後、フリーになる。日本写真芸術専門学校講師を務め2012年に退任。日本写真家協会会員。日本カメラ財団 菊池東太写真塾講師。
写真展(個展)に、81年「砂漠のひとびと」(ミノルタフォトスペース)、87年「二千日回峰行」(有楽町そごう)、94年「木造モルタル二階建て」、95年「アメリカンウエスト〜ミシシッピの西」、97年「ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年」(以上コニカプラザ)、04年「足尾」(銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン)、同年「DESERTSCAPE」、06年「WATERSCAPE」(以上コニカミノルタプラザ)、09年「白亜紀の海-海底にあったアメリカ-」(銀座ニコンサロン)、13年「DESERTSCAPE 2」(コニカミノルタプラザ)、13年「白亜紀の海 2」(新宿ニコンサロン)がある。 
著作に『ヤタヘェ〜ナバホ・インディアン保留地から』(佼成出版社)、『ジェロニモ追跡』(草思社)、『大地とともに(共著)』(小峰書店)、『パウワウ アメリカ・インディアンの世界』(新潮社)、『「アメリカ」ワールド・カルチャーガイド⑮』(トラベルジャーナル)などがある。

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