Nikon Imaging
Japan
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銀座ニコンサロン


管 洋志展
[奄美 ―シマに生きて―]

11/14 (水)~11/27 (火)
10:00~19:00(最終日は16:00まで)
会期中無休





<写真展内容>
終戦から60年の日本。発展、混乱、不況を繰り返しながら、1980年代の急速なる円高と共に、日本はこのまま世界に通用する経済大国に成り得たか……、と国民誰もが信じた。
それから10年。過熱したバブル経済は破綻し、巨額の不良債権を生み、そして企業の再編、リストラ、かつてなかったデフレを経験し、21世紀を迎えた。
そのころ作者は、出口を失った日本人の心の焦りを写真で表現できないかと模索していた。その中で自分たちのアイデンティティを守り、静かに生きる人たちが、必ず居ると信じ、今も文化が凝縮して残る島々を目指した。
沖縄、そして奄美へ。島に育ち、島を守る小さな社会こそが、今では人間の生きる場所ではないかと思うようになった。
島と言えば、日本本土も島国、世界から羨望の眼で見られた「黄金の国 ジパング」だった。しかし、今はすっかり輝きを失い、沈没寸前の国と化してしまったのだ。
その時出会ったのが「奄美」。南西諸島のほかの島々に比べて、山は深く、緑は濃く、紺碧の黒潮に包まれ、淡々と人間の生き方、自然の過ごし方が、奄美にあると作者は信じた。
日の出と共に起き、働き、熱い太陽が照りつける昼は休み、湿気を含んだ風がゆるやかに吹き始める夕方には仕事を終え、浜に出て遠くの水平線を眺め、太陽が沈む姿を見届ける。「こんな平和な一日があるのだろうか」と考えるようになった。
深く奄美を知るようになった時、この平和な今日は、自然に出来上がったのではない、ということが解ってきた。
1945年、戦後の混乱期は、沖縄に順じて民衆の間で、その日、一日を生きる生活との戦いが始まった。そして8年間余りのアメリカの軍政下を経験し、鹿児島県でありながら、孤立した生活を余儀なくされた。
「奄美では生活のメドもつかず、本土へ行こうか、沖縄にしようかと迷ったが、沖縄へは自由にいけても、女ひとりでは、売春をしに行ったと思われるので、どうしても行く気になれなかった。」「本土への密航しかない…」と瀬戸内町古仁屋出身の堀千代さんは雑誌「さねんばな」3号に寄稿している。密航までして、働かなければならなかった生活ぶりがうかがえる。
本土復帰を熱望する、奄美に生きる人々の心のうちが他人事ではないことがわかった。どん底を経験した人間しか持ち得ない“心根の優しさ”を、作者は奄美で知った。
2003年12月23日。「本土復帰50周年」の祝賀行事が行われた時を境に、奄美に住む、人間の営みに焦点をあて、生き抜く事の喜び悲しみを撮り続けようと決意した。




<作者のプロフィール>
管 洋志(スガ ヒロシ)
1945年博多生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業。主にドキュメンタリー/ドキュメント手法によるフードフォト。現在ニッコールクラブ顧問。日本写真家協会会員。
〔受賞〕1977年「走るワセダ」で第8回講談社出版文化賞写真賞、84年「バリ公開葬」で第15回講談社出版文化賞写真賞、87年「バリ・超夢幻界」で第6回土門拳賞、98年「ミャンマー黄金」で第14回東川賞国内作家賞。
〔写真展〕1983年「バリ島・魔界・天界・不思議界」(小田急グランドギャラリー)、85年「不思議界・バリ」(筑波万博)、87年「ASIA」(銀座ニコンサロン)、91年「大日光」(東武百貨店池袋グランドギャラリー)、97年「ミャンマー黄金」(新宿コニカプラザ)、99年「笑うこどもたち」(銀座富士フォトサロン)、2000年「元気なヴェトナム」(愛知県三州足助町足助屋敷)、01年「麗江」(高山市飛騨の里)、02年「メコン 4525km」(新宿ニコンサロン)、03年「アウト・オブ・ネパール」(東京国際フォーラム)、05年「アジアに生きる」スマトラ沖地震復興写真展(銀座ACギャラリー)他多数。
〔写真集・著作〕『魔界・天界・不思議界・バリ』(講談社・1983年)、『京の片泊まり』(双葉社・2004年)他多数。
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