talk! talk! talk! : スポーツライター 青島健太さん |
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プロフィール あおしま・けんた。1958年、新潟県新潟市生まれ。埼玉県草加市で育ち、小学生の頃より野球を始める。春日部高校から慶應義塾大学へ進学、野球部主将として活躍する。1979年に東京六大学秋季リーグでは、1シーズンに6本塁打、22打点という新記録を樹立。1981年、東芝に入社、強打の大型三塁手として名を馳せる。1983年には社会人野球都市対抗優勝、オールジャパンにも2回選出される。1984年、ヤクルトスワローズに入団。翌年のデビュー戦では史上20人目の初打席初本塁打を記録した。1989年に引退、その後日本語教師としてオーストラリアに渡る。帰国後はこれまでの経験を生かしスポーツライター、キャスターに転身。現在は大学の非常勤講師も勤めている。 |
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まず、野球との出会いについて聞かせてください。
小学校に入ってすぐです。当時は、男の子がするスポーツといえば野球でしたから。やっぱり僕らの世代には、ジャイアンツの影響力が圧倒的でしたよね。王さん、長嶋さんに憧れて、実際にチームに入ったのは4年生のときです。そのまま、当たり前のように中学校でも野球部に入って野球をしていました。
高校に入学されたとき、一度は野球から離れようと思ったとおうかがいしたのですが?
家族の勧めもあって、進学校に入って勉強に専念しようと思ったんです。実は中学のときに野球をしに来ないかと強豪の高校から誘いがあったんです。それを蹴ってまで入学した高校ですから、きっぱり止めようと思っていたのですが、結局我慢できずに野球を始めてしまいました。僕が入学したときには2、3年生合わせて10人という小さなチームだったのですが、それでも野球が楽しくてしかたありませんでしたね。
ですが、最終的には埼玉県代表になるぐらいの強豪チームになりましたよね。
そうなんですよ。いろいろとラッキーなことが重なったのでしょうね。たまたま僕の学年で16人の入部があって、しかもそれなりに野球のできるヤツが集まったんです。上級生が少なかったので、すぐにレギュラーになることができました。早いうちから実践で練習を積むことができたんです。
実践を積むことが上達につながるのですか?
実践の中で技術が身につくということですか?
というよりも、ゲームの最中にバットがボールに全然当たらないという体験をすれば、当てられるように、飛ばせるようにするにはどうすればいいのかな、練習でこうすればいいのかなというふうに考えるでしょう。監督やコーチにやらされてるのではなく、自ら主体的に練習メニューに取り組むことができるようになると思うんです。 自主的に取り組めば、楽しいうえに伸びも速いでしょう。そういう考え方がもっと日本でも広がったら良いなと思いますね。実際、僕らの能力が良い方向に引き出されたのも、最初からどんどん試合に出る場を与えてもらったからというのもあると思います。 ※注1 コーチング=アメリカで生まれた「自発的な気持ちによる、自主的な行動を促し、目標達成をサポートする」ためのコミュニケーション方法。心理学、成功哲学、行動科学、接遇学などが融合された総合的な社会的技術として確立されている。このコーチングを身につけたプロフェッショナルをコーチという。 |
高校卒業後、大学野球、社会人野球と進み、27歳でプロ野球界へと入られたわけですよね。
社会人野球の世界に入って1年目に都市対抗で準優勝、3年目には優勝したんです。3年間のうち2回の決勝進出という結果に、野球はもう十分だと感じました。それよりもむしろ仕事に集中したかったのです。その当時は午前中は仕事、午後には練習という毎日の繰り返しでした。ですから、会議の内容もちんぷんかんぷん、仕事が途中でも時間が来ると「すいません、練習行ってきます」と言って練習に出なければならない……。いつかは野球を辞めるときが来るのに、いつまでもこんなことをやっていたらどんどん仕事で遅れをとってしまう。仕事に対する焦りが頭をもたげてきたんです。
4年目に入って野球をやめようと決心しました。「野球をするのもこれで最後だ」と背水の陣をしき、最後の大会に向けて自分なりに本気で練習に取り組みました。ところが今度はそれが自信となり、これだけやったんだから次に進みたい、とことんまでやってみたいという欲求が出てきてしまったのです。
それでプロ入りを決心したのですね。
社会人野球を辞めるのは相当の覚悟がいりました。当時は終身雇用が当たり前だったでしょう。安定を保証してくれる大手企業から外れるというのは、すごく勇気がいる決断でした。先輩や上司にも止められましたし、やはり無理かなという不安との葛藤がありました。でも最終的に、「体は健康だし、もしプロがだめになっても自分1人が食べていくなら、力仕事でも何でもやればいいじゃないか」と考えたら、もやもやしたもの全てが吹っ切れたんです。すごく楽になって「よし、やってみよう」と決意することができました。
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実際にプロになってみていかがでしたか?
プロの世界は24時間が勝負なんです。あまり知られていないけれど、プロ野球選手というのは、朝走って練習をして、ナイトゲームの後にまた素振りやバッティング練習をしているのです。夜中の1時や2時までウエイトトレーニングをしている選手もいるんですよ。24時間野球のことを考え、自分にシビアな練習を課し、こなすことを脳に植えつける。それは、想像以上につらく厳しいことです。そういう精神状態に自分を持ってゆくまでの強靱な意志を持つこと。プロに入ってみて、それがよくわかりました。だから辞めるときも決断は速かったですね。 |
プロの厳しさというのは想像もつかないほどなのでしょうね。
そんなことはないです。ただ、プロに入るまでにも、もう限界だと思うところまで練習をしていました。ですが、プロはその限界の向こう側にいかなければならならなかったんです。
なるほど。限界を超えたところに存在するのがプロだった。
だと思います。気合いや意気込みだけでは、とうてい達することができないステージでしたね。当然ながらやる気だけで150kmの球は打てませんからね。「いくぞ、来い!」と気合いを入れた瞬間には、すでに球はミットの中なんですから(笑)。さらに技術的にハイレベルな領域、さらに本能的な領域の高みを目指し、自分の限界以上の能力を発揮しないといけないんですね。
たとえばゴロのボールを捕るにしても、跳ねてきたり転がってきたり、すぐそばまで転がってきたのにいきなりポーンって跳ねたりするでしょう。そんなの気合いや努力では対処しきれないですよ。本能の部分というか予測する能力というか、言葉にできない教えることのできない技術が必要なのです。こういう場合はこうするとか、教科書に書いてあればいいのにとよく思いましたよ(笑)。
その後、日本語教師養成学校に通われ、日本語教師としてオーストラリアに渡られたのですよね。
ええ、野球づけの日々から解放されたとき、僕は抜け殻のようになってしまいました。なにもする気力がなく先が見えない、とにかく野球から離れたいと思いました。野球をすることはもちろん、関わり合うことも辛かったのです。
そこで、あまり野球が盛んではないだろうという考えでオーストラリアに渡ったのです。ところが、オーストラリアの人は総じてスポーツが大好きなんですよね。僕が野球の選手だったと言ったら、みんなが教えてくれと言ってきたんです。初めは気乗りしなかったのですが、ボロボロの用具で楽しそうに野球をしている子供たちと接しているうちに、野球の、そしてスポーツ本来の楽しさを思い出すことができたのです。その体験が今の職業に就くきっかけとなったのです。



