Nikon Imaging
Japan
At the heart of the image.

第三十九夜 Ai AF Zoom-Nikkor 35-70mm F2.8S

大口径ズーム時代の幕開け
Ai AF Zoom-Nikkor 35-70mm F2.8S

今夜はニコンで初めてF2.8の大口径化を実現した標準ズームレンズ、Ai AF Zoom-Nikkor 35-70mm F2.8Sを取り上げます。ニコンの大口径標準ズームレンズの源流はどのようなものだったのか、そこにはどんな秘話や匠の技が隠されているのか?
今夜はその秘密を一つ一つ紐解いていきましょう。

佐藤治夫

1、F2.8の苦難

図1.凸型先行タイプ

図2.凹群先行タイプ

一般にズームレンズを大きく分けると、凸群先行タイプと凹群先行タイプとに分けられます。大口径ズームレンズに限らず、光学設計で最も難しいことは、大口径と大画角とを同時に成し遂げることです。標準ズームは比較的画角が大きいため、口径と画角とのそれぞれに起因する収差のせめぎ合いになります。その収差を余すことなく補正する必要があるのです。使用されるレンズタイプも凸群先行タイプ(図1)と凹群先行タイプ(図2)の両方が存在します。収差補正上のネックになるのは、広角側の周辺性能と周辺光量、そして望遠側の中心および周辺性能とのバランスでしょう。設計者は、どちらに重きを置くかで、凹群先行か凸群先行かの選択を迫られることになります。

凸群先行タイプは、初めの凸群で光束を収斂するため、その後方の凹群や凸群が小型に出来ます。後群で発生する明るさに伴う収差は比較的補正しやすいため、特に望遠側で威力を発揮します。しかし、凸群から始まるため、周辺光量確保に不利で、フィルターサイズの大型化をまねきやすいです。逆に凹群先行タイプは、凹レンズ群から始まるため、周辺光量を確保しやすく、また広角側の収差補正にも有利な特徴を持っています。したがって、広角側の設計のしやすさという点では、凹群先行型に軍配が上がります。しかしながら、凹群先行タイプでは初めの凹群で光束を大きく跳ね上げるため、その後方の凸群が大型化し、強い屈折力を持たせる必要があります。その結果、収差発生量も大きくなります。したがって、望遠側の設計のしやすさという点では、凸群先行タイプに軍配が上がります。当時としては、どちらを選択しても、難易度の高いスペックであったことには変わりありませんでした。

2、開発履歴

それでは、Ai AF Zoom-Nikkor 35-70mm F2.8Sの開発履歴を紐解いてみましょう。光学設計完了は1986年の春のことでした。そして、同年の9月に試作図面が出図され、試作、検証実験、実写テストを重ね、1987年の冬に量産図面が出図されています。そして、満を持して1987年12月に発売されました。光学設計を担当したのは、当時、光学部第一光学課に在籍していた稲留清隆氏です。稲留氏は、私の新人時代の良き兄貴分とでも言いましょうか、実に面倒見の良い先輩でした。光学設計者としての稲留氏は厳密に細部まで神経を使い、注意深くシミュレーションを行なう方です。特に凹群先行型4群ズームレンズに対して造詣が深く、その設計には秀でたものがあります。また、ズームレンズのIF化に必要な、カム計算を行なうソフトの開発者という一面も持った、多才な方です。

普段の稲留さんは絵に描いたような几帳面さと、九州男児らしい豪快さと明るさを持ち備えた人です。稲留さんといえば、字を書く時に小さな定規を自在に使って、一画一画をまっすぐに引き、幾何学的できれいな字を書くことで有名でした。また、稲留さんの作成したソフトには必ず女性の名前が付いていました。ある時、私は稲留さんに聞きました。いったい誰なのか?しかし、真実を明かしてくれませんでした。未だになぞのままです。

3、描写特性とレンズ性能

まずは断面図(図2)をご覧ください。このズームレンズは凹群先行4群ズームレンズです。1つ目の特徴は、3番目の凹群を固定させ、さらに2番目の凸群と4番目の凸群を一対で移動させる構成をとっていることです。この構成は、凹群先行4群ズームレンズで、最も収差補正上の制約が多い構成なのです。稲留氏はなぜこのような構成をとったのでしょう。それは鏡筒設計と製造に対する配慮に他ならないのです。このレンズの鏡筒構造は、カム(曲線移動溝)が1本とリード(直線移動溝)が1本のみで構成できるのです。すなわち、安価な2群ズームと同じ機構なのです。当然、シンプルな構造は、レンズの生産性を向上させます。もちろん、光学設計的には各群の動きを規制されるので、非常に大きな足かせになります。その状況下で、このレンズが良好な収差バランスを実現しているのには驚かされます。

特に歪曲収差の変動の少なさは、まさに匠の技でした。また、稲留氏が好んで使ったものに、凹凸凹の3枚貼り合わせレンズがあります。まだまだEDガラスが高価で、安易に使用できなかった時代に、アポクロマート色消しを実現するための技術です。このズームレンズにはEDガラスを1枚も使っていませんが、非常に良好に色収差の補正がなされています。これもまた、匠の技だったのでしょう。

それでは、遠景実写結果と作例、設計値の両方から描写を考察してみましょう。まずは設計値から考察します。まず、広角側は軸上色収差、倍率色収差ともに少なく良好で、非点収差、像面湾曲も少なく良好です。また、歪曲収差も-3%以内におさまっています。次に望遠側ですが、まず目をひくのが、非点収差が少ないことです。若干像面湾曲は大きめですが、非点収差の少なさは、良好な立体感とボケ味を実現できます。また、歪曲収差も+2.5%以内に収まっていて良好です。コマ収差が若干残っていますが、かえって像が硬くならず、適度なやわらかさの中にシャープネスが共存しているため、まさにポートレート用として適した収差バランスになっているといえるでしょう。

作例1

35mm(F2.8)

作例2

50mm(F2.8)

作例3

35mm(F2.8)

それでは遠景実写結果と作例を考察します。まず、広角側ですが、開放から適度なコントラストと解像力を持ち、素直な描写をします。中心部分に比べ、わずかに周辺の解像感が落ちますがむしろ自然です。F4~F5.6に絞るとさらにコントラスト、解像力とも向上し、周辺の解像感も上がります。F8に絞るとさらに全画面均一になりコントラストの良い、最良の画質となります。そして、F11~22では回折の影響で徐々にシャープネスが低下していきます。一方、望遠側は、開放では適度なコントラストと、解像力を有し、やわらかさの中にも芯があり、自然な描写をします。F4~F5.6に絞ると、シャープネスは向上し、周辺像もシャープで良好な画質になります。F8に絞るとさらにシャープネスが向上し、最良の画質となります。F11~F22では徐々に回折の影響が出始め、シャープネスが低下していきます。

作例1は広角端・絞り開放で撮影したものです。人物の描写等を見れば、十分なシャープネスを持っていることが分かります。また、背景のボケ味も破綻がなく広角レンズとしては良好です。作例2は中間焦点距離(f=50mm)・絞り開放で撮影したものです。人物とその周辺は、十分なシャープネスとコントラストを持っています。

また、背景の描写も癖がなく、良好なボケ味を予感させます。作例3は望遠側・絞り開放で撮影したものです。髪の毛の1本1本を解像する描写力をご覧頂ければ、十分なシャープネスを持っていることが理解できます。また、このクラスのズームレンズとしてはボケ味も素直なことが、背景から分かります。

稲留清隆という人

稲留さんのまじめな一面は、今までの説明でお分かりでしょう。ここでは、稲留さんの豪快さが分かる一面をご紹介します。

稲留さんは歴代の設計者の伝統(?)である酒豪の一人です。お酒を飲めば飲むほど、明るく朗らかさに磨きがかかります。若き日には、大井町の飲み屋に枕のキープがあり、店の戸締りを任せられて、飲み屋から出勤もしばしば。しかし、さすが鉄人、幾ら飲んでも翌朝はすっきり。バリバリと仕事をこなしていました。そんな豪快な稲留さんも結婚して節制していたころのお話を1ついたしましょう。私も、同じ社宅仲間でした。帰り道が同じということもあり、一緒に飲んで帰ることもしばしば。ある日のことです。いつものように飲んだ帰り道、稲留さんを送り帰宅しました。稲留さんの社宅の前には小さな公園があり、その入り口でお別れしたのです。しかし、それが良くなかった。あくる朝、帰宅時間を聞いたら、明らかに1時間ほど遅くなっていました。どうも稲留さんは、ほろ酔い気分で公園のベンチでウトウトしてしまったらしいのです。さすがの鉄人稲留さんも日々の激務に疲れが出たようです。今は良い思い出になりました。