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第三十七夜 W-Nikkor 3.5cm F2.5

定番レンズの秘密
W-Nikkor 3.5cm F2.5

第三十七夜は、再び、ニコンS用ニッコールの話をいたしましょう。ニコンS型カメラの時代、カメラマンの三種の神器と言われたのが、3.5cm、5cm、8.5cmの3つの焦点距離のレンズでした。一人前のカメラマンになるためには、この3つの交換レンズを自在に使いこなさなければなりませんでした。

佐藤治夫

中でも焦点距離が35mmのレンズはカメラマンの必須アイテムでした。時が流れ、一眼レフの時代に遷り変わっても、35mmレンズはカメラマンや愛好家の大きな支持を受けています。洋の東西を問わず、数多のカメラメーカーが、数々の35mmレンズを生み出しました。当時の日本光学(現ニコン)においても、3.5cmレンズの設計は、重要なテーマの1つでした。第三夜でふれた3.5cm F1.8もそうでしたが、3.5cm F2.5も発売時には最も明るい3.5cmレンズでした。

当時のニッコール3.5cmは明るさで、他レンズより常に勝っていたことがわかります。定評ある3.5cm F2.5は、どのような特徴を持ったレンズなのでしょう。また、どんな逸話があったのでしょう。今夜は、この定番レンズ、ニッコール3.5cm F2.5の秘密を解き明かしましょう。

1、開発履歴

それでは、ニッコール3.5cm F2.5の開発履歴を紐解いてみましょう。光学設計を手がけたのは、第三夜、第二十九夜でご紹介した東秀夫氏です。東氏は短期間で多くの広角レンズを設計していたことがわかります。まず、3.5cm F2.5の設計報告書をみて、私は目を見張りました。なんとこのレンズは、当初はF2.7で設計されていたのです。要は、近軸理論でパワー配置を決め、極力三次収差の発生を抑えつつ設計を行い、その後徐々に口径を上げていくという設計手法をとっていた証なのです。この手法は設計の筋が良くなければ、口径を上げる際に破綻をきたします。この手法が取れたということは、元設計の残存収差が少なく、特に高次の収差の発生が少ない設計になっているという証でした。ツールの無い時代だからこそ、この手法を使ったのかもしれません。この設計方法を使った東氏は、ガウスタイプのレンズを熟知していたに違いありません。

3.5cm F2.5の量産は昭和26年(1952年)にスタートしています。発売は同年7月、9年間の長きにわたり販売し続けました。当初は真鍮製の鏡筒で、ずっしり重いレンズでしたが、後に3.5cm F1.8と同様の鏡筒が軽合金に変更され、使い勝手が良い定番レンズになったのです。また、大下氏が第八夜でふれているとおり、S用ニッコール3.5cm F2.5は定評があり、生産もしやすかったため、硝材を変更し、曲率半径を変更し、修正設計することで、ニコノス用の標準レンズに生まれ変わります。これは東氏の基本設計が優秀であった証拠です。基本がしっかりしているものは、転用もしやすいものです。

2、描写特性とレンズ性能

断面図

まず、断面図をご覧ください。このレンズは典型的なガウスタイプのレンズです。左から凸レンズ、凸凹接合レンズ、凹凸接合レンズ、凸レンズの4群6枚で出来ています。中央の2枚の接合に挟まれるように絞りがあり、対称型の構成を持っています。

ガウスタイプの特徴としては、球面収差、色収差の補正が容易なこと、また、対称型の構造を持っているため、倍率色収差と歪曲は否が応でも補正できます。したがって、ガウスタイプはトリプレットやテッサーに比較して、より大口径化ができ、また画角にも耐えることができます。しかしながら、ガウスタイプが良好な性能を得るには、画角60~70度が限界のようです。それ以上の広角レンズになると、オルソメタータイプや第二十九夜で紹介したトポゴンタイプに道を譲ります。また、ガウスタイプの欠点としては、サジタルコマフレアーの補正が難しいところでしょう。この難題をいかに改善するか、それがまさに設計者の腕の見せ所です。

それでは、ニッコール3.5cm F2.5はどんな写りをするのでしょうか。収差特性と実写結果の両方から考察してみましょう。

まずは設計報告書を紐解いてみましょう。このレンズの収差補正上の特徴は、球面収差と像面湾曲にあります。球面収差はアンダーコレクションになっています。これは背景のボケ味を良くする効果があります。また、像面湾曲は比較的大きく、サジタル(S像)、メリジオナル(M像)共にアンダーで膨らんでいます。

しかし、ごく周辺を除いて非点収差は少なくM、S像共にそろっています。特にS像面をアンダーにしたのは、サジタルコマフレアーの発生を抑えるためだったのでしょう。東氏は像面平坦性を少し犠牲にして、とんびのようなフレアーの発生を抑えたかったに違いありません。スポットダイアグラムを見れば点光源の結像状態がわかります。センターは点像のまとまりが良く、シャープな結像を期待させます。しかし、像高が増すにつれて、アンダーの像面湾曲のせいで徐々に前ピン傾向になります。コマフレアーは、むしろメリジオナルコマフレアーの発生が若干大きく、サジタルコマの独特のとんび形状のフレアーは発生しません。

描写特性をまとめると、センター付近は解像感もありシャープな結像をし、周辺に行くにしたがって、像面湾曲の影響で前ピン傾向になり、芯はあるがフレアーの発生によって徐々にシャープネスが低下する傾向があります。ただし、点像が不自然な変形をすることが無いので、素直で癖の無い描写をすると言えるでしょう。また、歪曲は1%以下に収まっており、倍率色収差も小さく、若干絞り込むことで、シャープネスの向上が期待できます。

次に実写結果を見ていきましょう。F2.5開放~F2.8時は、センター近傍は解像感があり線の細い描写をします。中心から周辺に向かうにしたがって、前ピン傾向になり像が甘くなります。しかし、見苦しい像の流れなどは無く、破綻の無い柔らかな描写をします。四隅では若干周辺光量不足がありますが、当時の広角レンズでは平均的な量です。F4~5.6に絞ると、センター近傍のシャープネスはさらに向上し、シャープな領域が広がります。周辺像も改善され、シャープネスが向上してきます。ごく周辺を除いて、良像領域に達します。周辺光量不足も解消されます。F8~11に絞ると、周辺部まで解像力が向上し、画面全体にわたり均一で良好な画質になります。コントラストもちょうど良い量になり、決してドンシャリのきついコントラストにはならず、階調豊かな描写をします。F16~22まで絞ると、点像の形は揃いますが、回折の影響で全体にシャープネスが低下します。シャープネスを期待するならF8~11に絞り、ポートレートに向いたやわらかい描写を望むのならF2.8~F4で撮影するのが効果的かもしれません。

それでは、作例写真で描写特性を確認してみましょう。作例1はポートレートに用いた場合の作例です。髪の毛や服の繊維の質感を見ればわかりますが、線が細く、柔らかなコントラストで、階調も豊富で、自然な描写をしています。また、壁の模様を見てもわかるとおり、不自然な像の変形やフレアーを感じさせません。

作例2は風景・スナップの作例です。絞り込んで撮っているため、シャープネスは周辺まで均一で癖が無い描写をしています。特記すべきは、著しい高コントラストの描写になっていない点でしょう。晴天の強い光線の降り注ぐ中での撮影でしたが、暗部の再現性も良く、適度なコントラストの圧縮が行われていることがわかると思います。

ガウス先生の知らないガウスタイプ

今夜は3.5cm F2.5でも用いられている、“ガウスタイプ”の発祥についてお話します。このガウスとは、ドイツの高名な数学者C.F.GAUSS(1777~1855年)の事ですが、実は、我々が良く知っている“ガウスタイプ”の発明者ではないのです。ガウスタイプは、ガウスの知る由も無い後世になってから発明され、命名されたレンズタイプでした。では、なぜガウスタイプという名称がついたのでしょう。それは、次のような経緯があったからなのです。

まず、ガウスは1817年に望遠鏡の収差改良を目的に凸凹のメニスカスレンズ2枚によって構成されるレンズタイプを発明したのです。そして、時は流れ約70年後に、アメリカのAlvan G.CLARK(1832~1897年)が、このガウスの望遠鏡を2つ向かい合わせにして、間に絞りを入れることで、収差が改善することに気がつき、特許を取得します。クラークはレンズの対称構造が収差補正に多大なる効果があることに気がついたわけです。ここで、今我々が目にしているガウスタイプの原型が出来上がりました。その後、1895年にルドルフが、クラークの発明の中央に位置する2枚の凹レンズを貼り合わせた接合レンズに改め、貼り合わせ面の曲率で色収差をコントロールできる“プラナー(Planar)”を発表しました。これが、現在の“ガウスタイプ”のルーツになります。また、当初はダブルガウスタイプと言われていましたが、後にガウスタイプとして名前が定着することになります。

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