Nikon Imaging
Japan
At the heart of the image.

第七夜 NIKKOR-N 5cm F1.1

Noct-Nikkorの源流となったガウスタイプ超大口径レンズ
NIKKOR-N 5cm F1.1

第七夜は、再び昔に戻って、Sマウント用・Lマウント用交換レンズ、「NIKKOR-N 5cm F1.1」を取り上げます。

佐藤治夫

このレンズが発売されたのは、昭和31(1956)年2月のことでした。“世界初”と“世界一”は逃したものの、F1.2より明るい超大口径レンズは、昭和28(1953)年発売の「ズノー 5cm F1.1」(帝国光学工業株式会社、後のズノー光学工業株式会社)に次いで二番目の登場でした。ますます超大口径レンズの開発競争が激化し、遂にF1.0を超える超大口径レンズまで登場する事になります。当時、これら時代の申し子達は“人間の眼よりも明るいレンズ”というキャッチフレーズで世界中のフォトグラファーたちを沸かせたものでした。

「ニッコール 5cm F1.1」の光学系を設計したのは、当時設計部第三数学課の課長技師・村上三郎氏です。村上氏は第三夜で取り上げた「W-NIKKOR 3.5cm F1.8」(昭和31(1956)年9月発売)の設計者・東秀夫氏の右腕的存在でもありました。

日本の名設計者は一般に知られる事がありませんが、その足跡は数々のパテントと報告書によってたどる事が出来ます。村上氏はこの超大口径レンズの発明を1957年に特許出願し、1958年に米国特許(U.S. PAT.)を取得しています。この超大口径レンズが新しいレンズタイプの発明として認められたのです。

このレンズの開発は、F1.1という明るさを有するが故に困難を極めました。幾度にも及ぶ設計変更、再試作を繰り返し、二年に及ぶ開発期間を要したそうです。

当時の設計者の光線追跡計算の道具と言えば、そろばんと対数表です。気が遠くなるような膨大な計算量と時間。強靭な精神力と、より優秀なレンズ設計への意気込みが、当時の設計者を支えていたに違いありません。

1、レンズ構成と特徴

図1.NIKKOR-N 5cm F1.1レンズ断面図

図2.W-NIKKOR 3.5cm F1.8レンズ断面図

第五夜に続き、少々難しいお話をしますがご容赦ください。

まず、「5cm F1.1」の断面図(<図1.>)をご覧ください。このレンズはガウスタイプを基本構成としていることが、お分かりになると思います。先にふれた「ズノー 5cm F1.1」(1953年)がゾナータイプの発展型なのに対して、「ニッコール」がそれまで慣れ親しんだゾナータイプと訣別し、ガウスタイプを選択したことは、設計的に正しい判断でした。「5cm F1.1」の設計的な特徴は、当時新開発の稀土類のLa(ランタン)系硝材(ガラス材料)を凸レンズ3枚に用いて、球面収差と像面湾曲を、そして、鮮鋭度と像面平坦性を改良していることです。また、前後に凸レンズまたは接合凸レンズを追加する事によって、従来のガウスタイプよりもさらに各レンズエレメントのパワーを緩め(ゆるめ)る事に成功しています。

ゾナータイプではむしろ、“毒を持って毒を制す”方法で収差補正がなされていますから、極端に強いパワーを必要とします。したがって、部品製造および組立て時の苦労は急増します。「5cm F1.1」では、各レンズのパワーを緩めに使用できるということは、発生する収差も少なくできるということですから、超大口径レンズの場合には特に有効な手段でした。また、断面図をよくみると、東氏設計の「3.5cm F1.8」(<図2.>)と類似している事に気がつきます。ほぼ同時に開発されたこの二本のレンズは、よい意味でお互いを刺激しあって、設計ノウハウを共用しながら開発されたようです。しかしながら、設計的な味付けはまったく異なります。この辺り(あたり)が写真レンズの設計の難解かつ興味深いところだと思います。

2、描写特性とレンズ性能

「5cm F1.1」はどんな描写をするのでしょう?評価については個人的な主観によるものです。参考意見としてご覧ください。

このレンズは対称型の特徴を持ち備え、特にディストーションが少なく、高解像力を得るために必要な条件である「倍率の色収差が少ない」という特徴を持っています。また、大口径レンズとしては珍しく、球面収差がまっすぐ伸びた形になっています。そして、像面湾曲が若干補正不足で残存しています。さらに、非点収差が少ないという特徴も持っています。しかし、周辺部分はコマ収差が大きく残存し、フレアによりコントラストも解像力も共に低下してしまいます。

したがって、残存収差から画質を推測すると、中心部分は良好な球面収差ゆえに比較的解像力は有りますが、周辺部分では大きくコマ収差が残存し、性能劣化が大きいと言わざるをえません。また、対称型レンズの宿命でもある周辺光量低下が発生します。開放近傍ではラグビーボール型のビグネティングとコマ収差の影響によって、ボケが円弧状に渦を巻いたように写ってしまう欠点があります(<作例2.>の背景参照)。球面収差形状や絞り形状等々、良いボケ味につながる要素を十分持っているのに少々残念です。

しかし、今から40年以上も前に開発されたそれまでになかった超大口径レンズを、今日の技術尺度のみでみることは誤った評価と言わざるを得ません。「AI Noct-Nikkor 58mm F1.2」(昭和52(1977)年)の源流を、その20年以上も前に製品化した事に賛辞を送るべきでしょう。現に私は「ZUNOW 5cm F1.1」をはじめとする当時の大口径レンズ(絞りF1.2~F0.95クラス)を実際に使い、評価しましたが、「NIKKOR-N 5cm F1.1」の描写は優秀な部類に入りますし、ある意味、独特の描写特性を持っていると思います。

それでは、作例写真をもとに各絞りごとの描写特性を述べたいと思います。

F1.1~f/1.4では、極中心部分は若干コントラストが低めながら、解像力は比較的あります。しかし、中間部分から周辺部分ではコマフレアによってコントラストは低下し、ベールのかかったような柔らかい描写になります。また、特に遠景では像面湾曲のために、画面中間部分では解像力が低下し、周辺で再度向上する特徴があります(<作例1.>の画面中間の右側人物(カバンを抱えた女性ほか)と、画面周辺の階段を降りてくる女性たちとの描写の差に注目)。また、前後のボケが見苦しいラグビーボール型になり、円弧上に流れます(<作例2.>の後ボケ参照)。

f/2~f/2.8では、中央部分から中間部分の解像力とコントラスト共に、著しく向上します。f/2.8ではごく周辺を除き充分シャープになり、ボケ味もかなり改善されます。f/4~f/5.6では画面均一でシャープになり、ボケ味も良好になります。ポートレート等で使用するのであればf/2.8~4が好ましいと思います。f/8~f/16では画面均一で十分なシャープネスが得られますが、コントラストの高すぎる描写にはなりません。

試作の宇田川名人

今回は設計者のお話ではありません。試作の名人・宇田川和也氏にご登場いただきます。
試作部門とは、いわば我々設計者の図面を現実の物にしてくれる人々の集団です。株式会社ニコンの映像カンパニーのカメラの試作部門には、労働省が平成11(1999)年度の「現代の名工(卓越技能者)」150名のひとりに選んだ古川和正氏をはじめとして、数々の名工がいます。宇田川名人の腕は言うまでなく試作部門の中でもトップクラスですし、試作品に対する改良案やアイディア出しはピカイチで、私などはいつも助けられています。

宇田川名人のヴァイタリティーの源は、試作部門随一の“趣味人”である事でしょう。休み時間はカメラ雑誌を見て中古カメラ情報を収集し、休日や会社帰りにカメラ屋をめぐって、“お宝”をGETしています。簡単な修理はお手の物ですから、状態の良いコレクションを沢山所有しています。この並々ならぬカメラやレンズに対する愛情が、仕事にも反映されているのです。

実は今回の「NIKKOR-N 5cm F1.1」レンズは、この宇田川名人に蘇らせてもらったものです。私の手元に有ったレンズは、絞り羽根がぐしゃぐしゃに折れていて、レンズは腐食し、バルサム切れを起こしていました。

はじめは私も、このレンズをただのジャンクとしか見ていませんでした。しかし、私の机の上に放ってあったこのレンズに眼を留めた宇田川名人は、「価値のあるレンズだから、是非修理して蘇らせましょう。どんな写りをするか試してみたいじゃないですか!?」と眼を輝かせました。

“蘇らせる”といっても、殆ど作り直しです。まず、当時の図面を書庫より引っ張り出して、腐食・バルサム切れしたレンズは趣味人ネットワークの他メンバーにお願いして忠実に再生してもらいました。そして、宇田川名人が絞り羽根を一枚一枚手で直し、最終的に全組・調整し、立派に蘇りました。

「Nikon SP」に再生したばかりのレンズを付け、手に取る宇田川さんの嬉しそうな顔。“この笑顔がニコンのカメラを支えているのだ”と思いました。そして、写してみて宇田川さんも私もびっくり!「5cm F1.1」はすごいクセ玉でした。それでも宇田川さんは「物(ブツ)撮りとポートレートには良い!」と気に入った様子。さすが趣味人、宇田川名人おそるべし!!